Missing Matter / 宮原嵩広


アスファルトについてのエッセイ
私達の身体は拡張を続けている。SNSは経験や記憶にとって代わりアバターが広大なネットを徘徊してもなお私達はここに立っている。現実と仮想現実を亡霊のごとく彷徨う人々。実身体感覚は麻痺し仮想身体感覚の特化を余儀なくされている。このような時代だからこそ彫刻を考え、様々な素材に触れ、実在感覚を澄ましてきた。木を彫り、石を彫りその神ともいえる存在に触れようとした。石や木に神性を感じる人は少なくないだろう。いずれネットにも神性は帯びるかもしれない。しかしそれはまだ先の話である。今まさにそれが起きようとしている素材がアスファルトなどの化石燃料だと考えている。なぜなら神性を帯びる条件として媒介可能であること、そして信頼されたまま死ぬことで永遠性を獲得することである。1960年前後に九州派やスミッソンが使用したアスファルトとは労働者視点の進歩と死んでいく自然の象徴であった。しかしその破壊力はうすれ、当たり前のようにその上で生活をし、自然はすべてその下へと内包された。そして数十年もすれば枯渇してしまうかもしれない。現代においてアスファルトを再提示することで人と物の関係を再定義したいと思う。

(前略)さて、トリックス・アンド・ヴィジョンともの派の双方に惹かれてきたという宮原嵩広は、この半世紀前の一事象をいかに読み替えようとするのか。あらゆる表面を覆い隠し包含するアスファルト、一方で肉をえぐり取られ内側を暴露された墓石。包み/剥がすその反発する二方向の中心にある磁場にこそ宮原の作品の「魂」がある。さしあたりそれを、彫刻の内臓、と呼んでおこう。物質が物質である権利は、いかにして顕現し得るか。
- 成相肇 宮原嵩広個展「missing matter -sculpture's dogma-」に寄せた文書より抜粋 -
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