夜光 / 渡邉慎二郎
夜光
真夜中、雲ノ平を歩いていると様々な気配が浮かび上がってくる。木々の揺れる音、動物が移動す る音、水が流れる音、風が通り過ぎる感触を受け止めながら歩いている。夜闇がもたらす圧倒的な緊 張感に意識を張り詰めながら、撮影を行った。体力のない私は早々に息が上がり、脈拍と共に神経の きしむ音が体内に響いてくる。痺れを伴った高いズィーといった音だ。それが水の音、木々の騒めき と混ざると奇怪な動物の唸り声や赤ん坊の鳴き声のようにも聴こえ始め、おどおどしながら歩いた。 怖いもの見たさと、恐怖とのせめぎ合いだ。
暗がりの藪に続く細い道を曲がると、突然異様な気配を出すなにかに遭遇する。昼間とは違い、全 てのものが、周囲に溶け込んだ背景としてではなく、一つの自立した「存在」として目の前に現れ、 この世界に漂う剥き出しの姿を見せつけてくれる。折れた枝葉、艶かしい岩肌、土から染み出てくる 水、それらの存在は粛々と闇と対峙している。この「存在」に近づきたい一心で、こうして夜を彷徨っ ている。
黒部源流を遡行していると、大きな岩が無数に聳え立っている。熱を持った生き物とは違い、闇と 冷気をただ黙って受け止めている。岩肌に触れてみると手が瞬時に悴むほどに冷え切っているが、こ れだけ大きな岩が、まわりを取り巻く生命を許容している姿にどこか安心感を覚える。そしてその岩 が、表面にまとった冷気を自己の存在の中心へと指向させていくように、私の身体も呼吸と汗と共に 芯まで冷えてくる。付きまとっていた恐怖は次第に、鉱物との共感を覚える事で悦びへと変わってい く。だがその感覚も、疲労が募り、握り飯を食べたとたんに、体内に発生した熱によって自分が「人 間だ」ということを思い出させられ、再び周りの冷気とのギャップに押し潰されてしまうのだ。
森の中。うっそうとした木々に包まれて歩いていると、私の気配を感じて動物が時折動き出し、ガ サガサと植物がこすれる音が鳴る。音がこちらへと近づいてくると思ったら、大きな風が通り過ぎて 行き、森が揺れている。目を白黒させながら彷徨っていると、それらの者たちと森を共有している事 に思いが至る。植物が私の存在を包み込み、他の生き物との緩衝帯になってくれている事に安堵感を 覚え、同時に自分の発する足音や大きすぎる気配に辟易としている。安堵と恐れ、その混ざり合う感 覚を持つことが私には興味深い。あらゆる気配の中に、他者を想像するために必要な接点を見出した 時、一方通行ではない、コミュニケーションが成り立つことを感じる。岩、木々、水、風、闇...彼ら の存在の気配に誘われ、そこに佇む姿を発見しては照明を浴びせ、写真に取り留めていく。そこに は、確かに私を呼んだ者たちの姿が写っている。
やがて夜が明け、朝日を浴びた山が色づいていく様子を眺め、来た道を戻って行く。雲ノ平山荘へ と帰り着き、昼食を頂き睡眠へと向かったが身体の調子がすぐれない。胃腸の活動が止まったようで 嘔吐してしまった。極度の緊張と疲労に悲鳴をあげる肉体から、改めて自分が人間である事を突き付 けられると共に、身体の中の鉱物性や植物性が世界と共鳴することも感じる、そんな夜行であった。
渡邊慎二郎