フィリオ社「ディスディスプレイ」展
展覧会について
「ディスプレイ派」という言葉は、主にポスト・インターネットアートの文脈においてディスプレイのイマージュや物質性を扱う美術作品、またそれらを制作する人のことを指す概念です。2017年に日本のアーティストである谷口暁彦 (1983-) が提唱したものの、定義自体の曖昧さや派に属するアーティストの示しずらさ、さらにはアーティスト自身があえて「派」を名乗るという露悪的な態度も相まって、いっときのトレンドとして消費されてしまいました。
本展はこの「ディスプレイ派」の再検討を契機としています。2017年以降、決して少なくはない人数の作家が、ディスプレイを単なるイメージデータの表示機器としてではなく、何らかの形でディスプレイと物質、例えば絵具やカメラ、印刷物や電源コード、さらには展示空間自体が接触することによって直接的または記号的に作用し合うような作品制作を行ってきましたが、一方でそうした作品群を「ポスト・インターネット」というものだけで説明することは困難でした。
そのため本展においては、「ポスト・インターネット」ないしは「インターネット」というような、2021年現在において単一の意味を指し示すことができない雰囲気を用いることはありません。本展において検証されるのは「ディスプレイ派」における作品のインストール ー 通常は複製可能なイメージデータを一時的に展示空間内に固定し「それでしかない」状態にする、という技術です。
美術展の展示空間内において、展示企画者や作家の名前、制作年月やイメージデータの解像度、その制作に用いられたソフトウェアが表記されることはあっても、 電源コードの配線にかかった時間や壁を研磨した人間が記されることはあまりありません。また、アトリエや賃貸スペースなど所謂「ホワイトキューブ以外」での展示の流行、またそうした場所でディスプレイマウントを設置可能な壁が無かったり、また壁を建てねばならなかったり、電源の引き回しの不自由さ、さらには日本において2020年の東京オリンピック開催決定を見据えた街頭ディスプレイの入れ替えゆえに、インターネットの中古市場にて大型のディスプレイが安い値段で流通したこと…。
このような状況においてもインターネットはもはや私たちの制作を含めた日常生活のおおよそに関連し、いつであっても作家のそばにはディスプレイやインターネットが、そしてイメージデータの制作が存在し続けます。翻って現在の「ディスプレイ派」とは、展示空間内にイメージデータをインストールする者=インストーラーの存在と、その者たちを取り巻く身近かつ現実的な状況によって表示可能なものとなっているはずです。
本展は、フィリオ社というインストール業者によって企画されます。彼らはまず1994から99年生まれの…ポスト・インターネットアートというバズワードの影響をもろに受けつつ、「インターネット」の肌感がポスト・インターネットアートのそれとは異なる世代の作家を招聘し、作品制作を依頼しました。そして、フィリオ社は「ディスプレイ派」のトンマナに沿う形で、いかような作品であれ「ディスプレイ派」にする、というような手つきでインストールを行います。
本展にインストールされるのは作品であると同時に、「ディスプレイ派」という、展示空間における「表示」の在り方の可能性でもあるのです。
「ディスプレイ派」という言葉は、主にポスト・インターネットアートの文脈においてディスプレイのイマージュや物質性を扱う美術作品、またそれらを制作する人のことを指す概念です。2017年に日本のアーティストである谷口暁彦 (1983-) が提唱したものの、定義自体の曖昧さや派に属するアーティストの示しずらさ、さらにはアーティスト自身があえて「派」を名乗るという露悪的な態度も相まって、いっときのトレンドとして消費されてしまいました。
本展はこの「ディスプレイ派」の再検討を契機としています。2017年以降、決して少なくはない人数の作家が、ディスプレイを単なるイメージデータの表示機器としてではなく、何らかの形でディスプレイと物質、例えば絵具やカメラ、印刷物や電源コード、さらには展示空間自体が接触することによって直接的または記号的に作用し合うような作品制作を行ってきましたが、一方でそうした作品群を「ポスト・インターネット」というものだけで説明することは困難でした。
そのため本展においては、「ポスト・インターネット」ないしは「インターネット」というような、2021年現在において単一の意味を指し示すことができない雰囲気を用いることはありません。本展において検証されるのは「ディスプレイ派」における作品のインストール ー 通常は複製可能なイメージデータを一時的に展示空間内に固定し「それでしかない」状態にする、という技術です。
美術展の展示空間内において、展示企画者や作家の名前、制作年月やイメージデータの解像度、その制作に用いられたソフトウェアが表記されることはあっても、 電源コードの配線にかかった時間や壁を研磨した人間が記されることはあまりありません。また、アトリエや賃貸スペースなど所謂「ホワイトキューブ以外」での展示の流行、またそうした場所でディスプレイマウントを設置可能な壁が無かったり、また壁を建てねばならなかったり、電源の引き回しの不自由さ、さらには日本において2020年の東京オリンピック開催決定を見据えた街頭ディスプレイの入れ替えゆえに、インターネットの中古市場にて大型のディスプレイが安い値段で流通したこと…。
このような状況においてもインターネットはもはや私たちの制作を含めた日常生活のおおよそに関連し、いつであっても作家のそばにはディスプレイやインターネットが、そしてイメージデータの制作が存在し続けます。翻って現在の「ディスプレイ派」とは、展示空間内にイメージデータをインストールする者=インストーラーの存在と、その者たちを取り巻く身近かつ現実的な状況によって表示可能なものとなっているはずです。
本展は、フィリオ社というインストール業者によって企画されます。彼らはまず1994から99年生まれの…ポスト・インターネットアートというバズワードの影響をもろに受けつつ、「インターネット」の肌感がポスト・インターネットアートのそれとは異なる世代の作家を招聘し、作品制作を依頼しました。そして、フィリオ社は「ディスプレイ派」のトンマナに沿う形で、いかような作品であれ「ディスプレイ派」にする、というような手つきでインストールを行います。
本展にインストールされるのは作品であると同時に、「ディスプレイ派」という、展示空間における「表示」の在り方の可能性でもあるのです。
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